×月1日 月曜日




教室に鳴り響く鐘。途端に弛緩する雰囲気。
俺は手早い動作で机の上のノート類を仕舞い、鞄の中のパンと紙パックのジュースを引っ掴み、授業を終えた教師が出て行くよりも早く教室を後にした。そしてわらわらと教室から出てくる生徒の間を縫うように進み、階段を降り、教室の集合体である新校舎の裏口から中庭に出る。
目指すは、新校舎とは中庭を挟んだ反対側に位置する、少し古ぼけた外観をした旧校舎。の、屋上だ。

(お、いるいる)
屋上に続く扉を開くと、そこには既に先客が居た。
丁度パンの袋をビッと破ったところだったらしいその先客は、ちらりとこちらに目を向け俺の姿を確認するも、その一瞬で俺に興味を失ったらしく視線を己の手の中のパンに戻した。
此処に来ると必ずと言っていいほど見掛ける顔だ。ユニセックスなシャツとジーンズ姿、プラス、肩に届くか届かないか辺りで切り揃えられた長髪、プラス、恐ろしく整った中性的な顔。それらを常に標準装備している為に、傍目からでは男なのか女なのかも分からない。声さえ聞けば性別の判別くらいは可能だろうが、生憎こいつとは会話をしたことがなかった。ちなみに、視力矯正技術が発達しコンタクトレンズが普及してもいるこのご時勢に珍しく無骨な眼鏡を掛けていて、それが端整な容姿から妙に浮いている。
屋上以外で見掛けた事がないから、多分1年生か2年生なんだろうことぐらいは分かる(ウチの学校は学年毎で教室のある階が分けられている。1年は一階、2年は二階、3年は三階だ。下足室も各学年で別々な為、別学年と廊下で接触するような機会は滅多に無い)が、それ以外は名前も含めて何もかも不明。
(眼鏡君が来てるってコトは……)
扉から少し進んで振り返れば、案の定、階下と屋上とを繋ぐ扉の付いた建物の上にも、お馴染みの先客が一人居た。
黒髪に浅黒い肌をした少年だ。高校生にしては容姿が幼く一見では12、3歳のようにも見えてしまうのだが、制服を纏っているのだかられっきとしたとここの生徒なんだろう。
こっちは眼鏡君と違い俺に一瞥すら寄越すこともなく、黙々と無表情のまま持参の弁当に箸を運んでいる。いつものことだが、その「他人に興味はありません。自分の快適が世界の全てです。」的な態度はウチの近所の野良猫を髣髴とさせる。多分こいつは人間じゃなく猫に生まれてくるべきだったんだろうな、と、会話を交わすどころか目すら合わせたことのない少年を相手に俺はちょっと本気でそう思っていた。……断っておくが、別にこの少年の態度が不快だと思ってるわけじゃない。まぁ、変わった人間だとは思うが。
各々の昼食を満喫する彼らに倣い、自分もさっさと定位置に座り込み、一息を吐く。と、さっき俺が閉めてきた扉がぎいっと開き、新たに一つの人影がこの屋上へと現れた。
こいつの名前は知っている。アレルヤ・ハプティズム。俺のクラスメイトだ。長身の男で、ガタイのいい体付きに反して柔和そうな顔をしている。
アレルヤは、長い黒の前髪の合間から覗くグレーの瞳で俺の姿を捉えた。
「ども」
「よ」
「相変わらず早いね」
「まぁな。ハレルヤは?」
「今日は教室だって」
「へぇ」
以上、会話終了。後はお互いに言葉を交わすこともなく、アレルヤは己の定位置に移動する。
先客の二人と違って、俺とアレルヤは別の場所で会えばそれなりに会話もする。だが此処での会話は最低限に留めるというのが、俺達全員の中にある暗黙の掟のようなものだった。

毎日毎日やってくる長い昼休みの中、人の多さと喧しさに嫌気が差した俺が、人の居ない方へ、居ない方へと静かな場所を求めて彷徨った結果、辿り着いたのが此処だった。旧校舎には使用頻度の低い化学実験室や調理室等といった教室が集まっており、食堂が新校舎を挟んで反対側にあることもあって昼休みは自然と人が集まり難くなるのだ。
おそらく、他の三人も同様の理由で此処に流れ着いたのだろう。
此処は、学校の中にありながら学校とは切り離された空間だった。時折風に乗って流れてくる新校舎の喧騒が、よけいにその騒がしい場所が遠く離れたものであるのだと錯覚させてくれる。生徒の間に流れる下らない噂話も、社会の縮図のような人間関係も、この屋上までは持ち込まれない。持ち込んではいけない。誰に言われるでもなく、俺たちはそのルールを遵守した。
他の生徒は滅多に来ないし、来たとしても一日二日でこの空気に耐えられなくなるのか、やがては来なくなる。自然に、この場所に集まる人間はごくごく限られたものになり、俺は毎日毎日同じ人間と顔をつき合わせて昼メシを食べることになるという訳だ。しかもその三人のうち二人については、名前も学年も知らない上に言葉を交わしたことすらないのだ。
我ながら、何とも不思議な関係だと思う。





×月2日 火曜日




今日、黒髪色黒少年が屋上に女を連れて来ていた。
といっても、別に驚くことでもない。あいつは今年から、週に一、二回程のペースで此処にこの女子を連れてくるのだ。屋根の上で並んで黙々と弁当に箸を運ぶ姿は、恋人というより兄妹のそれに見えた。
この女子の名前も知らない。容姿は、これがまたかなり可愛いんだよ。笑ったらもっと可愛いんだろうな、とも思うが、隣の少年よろしくこっちも常に無表情。ただ、少年と違ってしっかりこっちに視線をくれるし、目が合ったらぺこりと挨拶代わりに頭を下げてくれもする。……無表情で、だが。
「彼女、今日は来てるんだね」
今日も俺より少し遅れてやってきたアレルヤが、ぽつりとそう呟いた。そして女子と俺を一度ずつ交互に見、小さく溜め息を吐く。
「何だよ」
「……別に」
「別にって、」
「何でもないよ」
「……。……そういやおまえ、ハレルヤは?」
「今日も教室」
「ふうん」
以上、会話終了。何だか釈然としないものを残したまま、アレルヤは自分の定位置へと行ってしまった。
(何だってんだ、一体)
何となくあの女子の方に視線をやると、どうやら彼女の方は最初からこっちを見ていたらしく、ばちっと目が合ってしまった。
ここで目を逸らすのも失礼かと思い軽く笑いかけてみると、彼女は僅かに目を見開いて、俺をじーっと見つめたまま食事の手すら止めて固まってしまった。そのせいで俺のほうも視線を逸らすタイミングが掴めず、二、三秒奇妙な見つめ合い状態が続く。
そんな彼女と俺の膠着状況に助け舟を出すように、隣の少年が口を開いた。
「フェルト。箸、落ちる」
「え、……」
少女はやや慌てた動作で、手からずり落ちそうになっていた箸を掴み直した。
それにしても。此処で顔をつき合わせることになって早一年と半年、俺は今、初めてヤツの声を聞いた。
(意外と、低いな)
俺とは反対側のフェンスに凭れているアレルヤを見ると、あいつもヤツが言葉を発したことに少し驚いているようだった。
ついでに眼鏡君の方も確認するが、あっちはまるでいつも通りだ。パンは既に食べ終えたらしく、何やら文庫本を開いて熱心に文字を追っている。この様子では、色黒少年が声を出したことにすら気付いていないのかもしれない。
まぁ、そんなことを一々気にする方が可笑しいのかもしれないな。いくら猫っぽいといっても相手は人間なんだし、そりゃ言葉くらい喋るだろう。宇宙人じゃあるまいし。
それよりも。
(『フェルト』か)
少年は、彼女をそう呼んだ。
(謎の美少女の名前判明)
俺は何となく、その名前を頭の隅に留めておくことにした。



×月3日 水曜日




「おハヨ」
「お、今日は早いなクリス」
「日直だもん。リヒティの奴はどうせサボるんだろうし、私がやるっきゃないでしょーが」
朝。教室の扉を開けると、そこには黒板消しを携えたクラスメイトが居た。
クリスティナ・シエラ。可愛く明るく面倒見も良い、一言で言えば所謂『いい女』というやつだ。おまけに胸もデカいとなれば、男にモテない筈がない。最も、本人が告白してくる男子を片っ端からばっさりと両断している為、彼女には未だに彼氏の一人もいないらしい。
「ん?リヒティならさっき下足室で会ったぞ」
「え、嘘。ちゃんと来たワケ?あいつが?」
クリスが素っ頓狂な声を上げる。
リヒテンダール・ツェーリ。一言で言うと、三枚目、だ。「面倒臭い」と仕事をしょっちゅうサボることでも有名であるが、妙に愛嬌がありどことなく憎めない奴でもあるのでクラスメイトからのウケは良い。あくまでいい友達になれる、という意味合いでのウケなのだが。
「私ちょっと探してくる」
そう言ってクリスは黒板消しを片手に教室を出て行った。その背を無言で見送りながら、俺はやれやれと溜め息を吐く。
リヒティがクリスと二人の日直をサボる訳がないのだ。だって、リヒティは――、
「あんなに分かり易いのに何でクリスは気付かねぇかなぁ」
独り言のつもりで呟いたのだが、後ろから思わぬ相槌が飛んできた。
「気付いてんじゃねーの、ホントは」
「……ハレルヤ」
よう、とアレルヤそっくりの男が手を上げる。
「どういう意味だ?」
「そのまんま。あいつが男フり続けてんの、リヒティの為だし」
「マジ?」
「多分、だけどな」
ハレルヤの勘は信用できる。乱暴な口調や態度に反して、こいつの人を見る目は本物なのだ。
ちなみにこのハレルヤ・ハプティズムは、アレルヤの双子の弟だ。兄と同じく、俺のクラスメイトである。
「じゃ、あいつら結局両想いなのかよ」
「リヒティは気付いてないっぽいけどな。そんでもってクリスも自分から言い出そうとしねぇし」
リヒティはクリスの気持ちに気付かない。クリスはリヒティの気持ちを知りながら自分の気持ちを言い出せない。微妙にすれ違ってしまう男と女。何とも甘酸っぱい青春だ。
「……若いねぇ」
「同い年だろーが、若年寄り」

その日、昼休みは雨だった。
雨の日は、屋上には行かない。アレルヤもハレルヤもそうだった。眼鏡君と無表情兄妹がどうしているかは知らないが、流石にこんな日にあそこには行っていないだろう。
俺は久々に賑やかな教室の中で双子やリヒティ、クリス、ラッセ等といった面々と昼食を共にしながらも、あいつらがどうしているのかという考えがずっと心の隅に引っかかっていた。時々しか来ないあのフェルトという子は兎も角、あとの二人が上手く教室に溶け込めているとはとても思えないのだ。
無論、俺はあいつらのことを何も知らない。色黒の方のヤツとは声を昨日やっと初めて耳にした程度の関係でしかないし、眼鏡君に至っては『食べる・空や町並みを眺める・本を読む・歩く』以外の動作を見たことがない程だ。
だが、何となく、両方ともワケありなんだろうなと俺は感じていた。教室に居場所を造れない類の人間で、そうやっていつも屋上に流れてくるのだろう。クラスの奴らとも適度な友好関係を保つことの出来る俺やこの双子は良い。だが、そういうことが絶対に出来ない人間も居るのだ。そして、その大抵が家庭や過去なんかに原因を抱えているのだという。
「……ル……ば、……ニールってば!私の話聞いてる!?」
「うぉ!?」
クリスの憤慨した顔がぐいと寄せられ、いつの間にか心を屋上に飛ばしていたらしい俺はハッと我に返った。
「……悪い、聞いてなかった」
「もう。折角久々に皆揃ってお昼食べてるのに、これなんだから」
「まーまークリス」
口をへの字に曲げるクリスの宥め役をリヒティに任せふと双子の方を見ると、アレルヤとハレルヤは妙な訳知り顔でこっちを見ていた。
「明日は、晴れるといいね」
「天気予報は晴れって言ってたけどな」
「あ、ああ、……そっか」
聡いこの双子のことだ、多分俺が何を考えていたかを的確に見抜いているんだろう。あるいは、こいつらも俺と同じことを考えていたのかもしれない。
「……ホント、晴れると良いな」
呟いて、窓の外を見上げる。
鉛色の空は相変わらず、ざあざあと雫を地に撒き散らしていた。



×月4日 木曜日




(ほんとに晴れた)
祈りが天に届いたのだろうか。今日は、見事なまでの快晴だった。屋上には水溜り一つ残っていない。
階段の屋根の上には、既に例の兄妹めいた二人が居た。だが、あの眼鏡君の姿は何処にも見当たらなかい。
遅れて、アレルヤがやって来た。今日はハレルヤも一緒だ。
「今日はおまえもか、ハレルヤ」
「ああ、まーな」
二人はいつもの位置に行くと、アレルヤは座り、ハレルヤは立ったまま肩越しにフェンスの向こうに目を向けながら、各々の昼食を食べ始める。
毎日此処に通うアレルヤと違い、ハレルヤはたまに教室に残る。アレルヤ曰く、弁当を食べながら家でしてこなかった課題を片付けているらしい。だが、此処に来るとハレルヤは決まって常にぼーっと外を眺めていた。
『遠くに行きたいんだよ、ハレルヤは。』
何時だったか、アレルヤにそう言われた。ハレルヤがいつも屋上で外を眺めているのは、どこか遠い場所に行ってしまいたいからなのだと。
この双子、特にハレルヤの方は、両親との関係があまり上手くいっていないらしい。詳しいことは知らないし、こいつらが話してこないうちは特に自分から詮索しようとも思わないが、どうやら親子喧嘩が殴り合いにまで発展することもしばしばのようで、ハレルヤは時折顔に青アザを作りながら登校してくる。そんな日の奴は決まって荒れていて、それを経験から知っている俺を含めたクラスメイト達は、アレルヤを除き、誰も奴の機嫌が落ち着くまで近付こうとはしないのが常だった。
皆色々あるのだ。特に、ここに集まるような奴らには。
(そういや、眼鏡君、今日は来ねーな)
あいつも、たまに来ない日がある。月に一度か二度程度だが、欠席にしては頻繁だ。
委員か何かの仕事があるのかもしれないし、他に事情があるのかもしれない。もしかしたらハレルヤ達が抱えているような『色々』に起因することなのかもしれない。だが、理由なんて知らないし、知りようもないのだ。所詮俺達は、結局、お互いに赤の他人でしかないのだから。
いつものようにぼんやりしているうちに、あっという間に時間は過ぎ、鳴り響く予鈴がこの時間の終わりを告げた。
アレルヤが立ち上がってうんと背筋を伸ばす。色黒少年はひらりと屋根から飛び降り、後に続くフェルトに手を貸していた。俺も立ち上がって軽く腰を捻った後、五限目の授業を受けるべく騒がしい教室に戻っていく。
結局、眼鏡君は現れなかった。



×月5日 金曜日



放課後。
いつものように家に帰ろうと校門をくぐった辺りで、俺は見覚えのある人影を見付けた。
(あ、)
あの子だ。時折屋上に来る女子。
彼女もこっちに気付いたようで、驚いたらしく一瞬目を見張った後、ぺこりと頭を下げてきた。顔は無表情なままなのに、突然の邂逅に仕草だけで慌てているようなその様が妙に可愛らしくて、少しだけ好感が持てた。
とりあえず、声を掛けても大丈夫そうな雰囲気だ。右手を上げて挨拶をしておく。
「よう。……フェルト、だっけ」
「え、」
何で、名前。と言葉少なに問われ、昨日屋上でアイツが君のことそう呼んでたろ、と返す。
「刹那が……?」
やや俯き加減で記憶を辿るフェルトは、該当する記憶を見付けたのかすぐに納得した顔をした。
「間違ってない、よな?」
「はい」
「えっと、ファミリーネームは?」
「グレイスです。フェルト・グレイス」
尋ねればすらすらと答えが返ってくる。ただ寡黙な性格をしているだけで、特に人見知りが激しい訳ではないようだ。
「じゃあグレイス、電車で帰るんなら俺と一緒に行かねぇか」
何となく彼女に興味を引かれたので誘ってみると、フェルトは「え?」という表情で固まってしまった。
(やべ、馴れ馴れしすぎて引かれたか?)
自分は屋上仲間というだけで既に親近感を抱いていたのだが、よく考えてみればこの子も自分に対し同じ気持ちを持っているとは限らない。そうでなくても昼間の俺達は常に不干渉のポーズを貫いているのだ。この過度な接触を持とうという態度は少々拙かったのかもしれない。
「わりぃ、嫌なら別に良いんだ。じゃな、気を付けて帰れよ」
とりあえず無難な別れの挨拶をしてそそくさとその場を立ち去ろうとする俺を、くんと服の裾を引っ張る小さな力が止めた。驚いて見れば、フェルトが裾を摘んで俺を引き止めている。
「……い、いやじゃない、から」
振り絞るように、フェルトは小さな声を上げた。
「……一緒に帰るか?」
こくりと頷いて「でも、良いの?」とでも言いたげにおそるおそる見上げてくる彼女に、俺はできるだけ優しく見えるよう微笑んで見せた。
「んじゃ、行くか」
道中、最初の五分ほどは会話らしい会話もなかった。
沈黙は苦にはならず、ただ並んで歩いているだけなのに、それが何となく屋上の雰囲気を思い出させて心地良いとすら感じた。クリス達とわいわい騒ぐのも嫌いではないけれど、やっぱり俺はどっちかというとこういう方が性に合ってるんだろうな、と思う。
フェルトの方も言葉を欲しがっているようには見えず、このまま黙っているのも良いかとも思ったが、一つだけどうしても気になることがあった。出会いがしらのフェルトが一人ごちた時に飛び出した、『刹那』という名前。
「聞いても良いかな」
「……何、ですか?」
「刹那って、あいつの名前か?」
屋上のあいつ。黒髪に浅黒い肌で、無表情で、童顔の男。
フェルトは、えっと、と少し口篭る。どうやら話すべきか誤魔化すべきかで少し葛藤しているようだったが、やがて彼女は元々小さかった声を更に潜め、そっと秘密を打ち明けるように口を開いた。
「ほんとは、違うんです。ソランって言うんです、ソラン・イブラヒム。――ううん、今はソラン・イスマイール。でも刹那、その名前で呼んで欲しくないって、俺は『刹那』だって凄く真剣な顔で言って。……だから私も、刹那って呼んでます。呼ぶ機会があるなら、貴方もそう呼んであげて下さい」
「……ん、了解」
今のフェルトの話だけでは事情はよく掴めなかったが、疑問を飲み込んで頷く。とりあえず、予想通り色々と背負ってそうな奴だってのは分かった。名前というものが、奴にとって何かとても大切な意味を持ったものらしいということも。
呼ぶときは気を付けよう。間違えたらこの子にいたく失望されそうだ。最も、俺が卒業するまでに奴を名前で呼ぶ機会なんてものがやってくるのかは甚だ疑問だが。
「あの……」
十字路に差し掛かったとき、突然、フェルトが立ち止まった。
「私、家こっちなんです」
「え、電車じゃねぇの?」
「私の家、駅の近くにあるんです。刹那の家も、隣に」
「そりゃまた、えらく学校と近いんだな」
毎日電車で駅を7つ経由して登校している俺からすれば、なんとも羨ましい話だ。
じゃあ此処で、と別れを切り出そうとした俺を遮り、フェルトは頭一つ分低い位置から真摯な眼差しで俺を見上げた。
「私の家、駅から近いんです。だから、多分そんなに時間掛かったりとかしませんから、……家の前まで、もう少し一緒に、来て欲しいんです、けど、……駄目、でしょうか」
上目遣いに、そうおずおずと尋ねられる。ああ、まるで小動物を見ている気分だ。この小柄な美少女にこんな風に懇願されて、断る男なんざ居るはずもないだろう。
それに、わざわざ誘ってくるからには、何か俺に話したいことでもあるのかもしれない。頭の中で今日の予定を反芻するが特にこの後用事らしい用事もないし、と、俺は二つ返事で了承した。

暫くフェルトの先導で細い道を歩いていると、彼女が不意に振り返って声を上げた。
「此処です」
「これがグレイスの家?」
「はい」
フェルトがそう言って指した先には、小奇麗だが飾り気のない一戸建てがあった。
一切の無駄なものを省いたような整然とした外観をしており、フェルトのイメージとよくマッチしている。この家の主であるフェルトの両親も、きっとこの子と似たような性格をしているのだろう。
そしてフェルトは、左隣に建っている小さな喫茶店を指して、こう言った。
「こっちが、刹那の家」
ぱっと見は二階建ての普通の家なのだが、一階のドアがガラス張りになっており、『OPEN』の札が掛かっている。クリーム色の壁に木をモチーフにした窓枠等、アットホームな雰囲気を持つセンスのいい外観をしていた。
「意外だな……」
ここがあの無表情な子供の実家なのだと言われても、今一つピンとこない。そんな俺の気持ちを顔から読み取ったらしいフェルトは、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ可笑しそうに微笑んだ。
「刹那のイメージには合わない、ですよね」
「あ、ああ。まぁ……」
「デザインしたのはマリナですから」
「マリナ?誰だ?」
見知らぬ名前が出てきたので、軽い気持ちで聞き返す。すると、ふっとフェルトの微笑が掻き消えた。
「マリナは、刹那の、……」
そこで一瞬不自然に言いよどみ、次の言葉はそれを誤魔化すように少し強い口調で続けられた。
「刹那の、姉です」
俺には、その「姉」という単語が何かを隠す為に使われたもののように感じられた。何かを尋ねようと口を開きかけた時、シャラン、という鈴の音と共に喫茶店兼刹那の家のドアが開き、中から現れた人影がフェルトを見て声を上げた。
「やっぱり。外に人が見えたから、フェルトじゃないかと思ったわ。おかえりなさい」
穏やかで優しい声。
喫茶店から出てきたのは、清楚なエプロンを身に付けた女性だった。歳は二十歳少しといったところだろうか。ストレートの長い黒髪を背中に流した、柔らかな雰囲気の美女だ。
フェルトがその美女に比較的フレンドリーな調子で返事を返す。
「ただいま、マリナ」
(……ん、『マリナ』?)
ということは、この人が刹那の姉なのだろう。しかし、確かに同じ黒髪ではあるが、姉弟というには少々顔立ちや肌の色が違いすぎている気がする。
腑に落ちない顔で彼女を見ている俺のことに気が付いて、マリナは首を傾げた。
「フェルト、この方は?」
「学校の先輩で、刹那の知り合い」
「……刹那の?」
マリナは一瞬驚いた顔をしたが、それはすぐに満面の笑みになった。
「そう、刹那の……。良かった、あの子、ちゃんと学校に友達が居るのね」
別に友達って程のものでもないんだがな、と俺は頭をかく。だが、マリナがあまりにも嬉しそうな顔をしているせいで、何となく否定することが憚られた。
しかし、こうして笑っているマリナは、弟のことを心から案じているいいお姉さんに見える。それだけに、とても純粋な姉弟には見えない肌や目の色の違い、顔立ちの差なんかが引っかかった。勿論、面と向かって問うなどという不躾なことをするつもりはないが。
俺が誤魔化すために曖昧な笑みを浮かべていると、開いたままのドアの奥からマリナを呼ぶ声がして、彼女は「じゃあ、また」と短く一言を残して慌てて店内へと戻っていった。仕事中だったのだろう。
ふと気が付けば、そろそろ電車が来る時刻だ。丁度良く場の雰囲気に区切りもついたし、と俺はフェルトに声を掛けた。
「……じゃ、俺もそろそろ行くわ」
「あ、はい、……来てくれて有難うごさいました」
「いや、悪いな。結局話らしい話も出来なくて。俺に何か言いたいことがあったんだったら、明日にでも……、」
「あ、いえ、そういうのじゃないんです」
俺はてっきり、フェルトが何か話があるから一緒に来てほしいと言ったのだと思っていた。だが、フェルトは首を横に振って、ちらりと視線を喫茶店の方へと向ける。
「ただ、ちょっと一目見ておいて欲しいな、って思って」
「見るって、刹那の家を?」
「いえ、あの、……マリナを一目見ておいて欲しかったんです、先輩に」
「刹那の姉さんを?そりゃ、何でまた」
「それは、その……」
言い篭ったフェルトは少しの間言葉を捜すように視線をうろうろと彷徨わせたが、やがて悪戯っぽく肩を竦めてみせた。酷く人間的な仕草。そんな柔らかいカオも出来るのか、と少し驚く。
「内緒、です」
「なんだそりゃ」
明らかな誤魔化しだったが、悪戯っぽいフェルトの微笑みが可愛かったので今は気にしないことにしておく。くすくす、と意味もなく互いに小さく笑った後、フェルトは俺に問うた。
「先輩。マリナを見て、どう思いました?」
「ん?どうって、うーん……」
突然尋ねられて、俺はさっきのマリナの柔らかい笑みを思い浮かべる。「優しいお姉さん」というイメージがぴったり合う女性だった。とりあえず、率直に感想を述べる。
「綺麗で優しそうな人だなぁ、と思ったな」
俺の返答を聞いて、フェルトは満足そうに笑みを深めた。
「ありがとう、先輩」
そう言って微笑んでいる彼女は、何故か、ひどく大人びて見えた。

何が、ありがとう、だったのか。尋ねることもなく、俺はフェルトと別れた。
何で部外者の俺にわざわざ刹那のお姉さんを見せようとしたのか、とか、刹那はフェルトにとって何なんだろう、とか、色々気になることもあったが、とりあえず今は保留にしておこう。今後も彼女と交流があるようなら、きっといつか色々なものが聞けるだろうし、見えてもくるだろう。
(……あ)
帰りの電車に揺られながら、俺は自分の名前をフェルトに告げずじまいだったことに思い当たった。
(ま、いいか)
それも、またいずれ、だ。






<続く(予定)>







2008/4/10
背景:
YOKAYOKA!

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